映画の感想文「明日は明日の風が吹く」「殺られてたまるか (1960) 」「俺たちの血が許さない」

俺たちの血が許さない」(1964 / 日活)を見ていたときのこと。
映画は居間でくつろぐ夫婦のシーンで始まる。夫はやくざの親分のようだ。隣の部屋には子供が2人寝ている。そして暗闇にうごめく刺客の影。刺客は突然居間に乗り込み夫を刺す。夫は妻に子どもたちをかたぎに育てるよう言い残して死ぬ。そして時は流れて十数年後…いや待て、この話どこかで見たことあるぞ。

デジャヴにとらわれたのもそのはず、実はこの映画、以前見た「明日は明日の風が吹く」(1958 / 日活)と同じ話だったのだ。その時は同じ会社だしリメイクすることもあるか、と納得したがその認識は甘かった。1年後同じストーリーの3本目の映画、「殺られてたまるか」(1960 / 第二東映)を見つけたのだ!

3つの映画に共通するストーリーは概ね以下の通りだ。映画によって三人兄弟だったり、次男が会社をくびになる原因が違ったり、登場人物の名前や設定が違っている。

2人の子を持つやくざの親分。ある夜彼は敵対する組が送り込んだ刺客に刺される。彼は死に際に子どもたちをかたぎに育てるよう妻に言い残して死ぬ。時は流れて十数年。兄は父の死後生活のためやむなく敵対していたやくざ組織の元でキャバレーの支配人になり、弟はサラリーマンとして生活している。そんな兄弟の前に刑務所を出所した刺客が現れた。彼は彼らの父親が最後まで自分の名前を言わなかったことに感じ入り、昔の行為を詫び、以後兄弟のことを何くれとなく気にかけるようになる。
あることがきっかけで会社をくびになった次男はやくざの世界を目指すが、長男はこれを食い止めようとする。長男が所属するやくざ組織は次男の存在を疎ましく思い、長男に次男を呼び出させ、刺客にそれを始末させるという策略を練る。次男が呼び出された場所に出向いたところで長男と刺客は組織を裏切り、次男を救う。

3作のスタッフを比較すると以下の通りだ。スタッフの中に色々役割を変えて「松浦健郎」という名が見える。特に「俺達の…」では「原作」とある。松浦健郎は戦後日本映画の脚本家として名をはせた人物で、この松浦健郎の原作をベースにこの3作がつくられたということだろう。

【映画概要 / スタッフ】

タイトル明日は明日の風が吹く殺られてたまるか俺たちの血が許さない
製作年195819601964
製作会社日活第二東映日活
監督井上梅次若林栄二郎鈴木清順
脚本池田一朗 / 井上梅次松浦健郎
企画児井英生 / 松浦健郎植木照男高木雅行
原作松浦健郎

松浦 健郎
経歴:昭和17年満州映画協会に入社。19年東宝に転じ、黒沢明、山本薩夫らの助監督をつとめる。戦後、23年脚本家に転向、代表作に「風速40米」(33年)、「電光石火の男」(35年)、「青年の椅子」(37年)など。また41年には小説「悪魔のようなすてきな奴」を発表した。

日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」2004年

3作のキャストは以下の通り。
長男は父なき後家族を養うためやむなく親を殺した組織の元で働き、一方でやくざの世界に入ろうとする弟を懸命に引き止めるという役柄のため、悩める「陰」なキャラクターなのに対し、次男は会社勤め、その会社を問題を起こしてくびになっても一向に気にしない能天気な「陽」のキャラクターである。物語はこの「陽」な弟を主人公として進む。各社とも弟には当時のトップクラスの俳優を起用している。

3作のキャスティングの中で特筆すべきは「明日は…」の金子信雄と「俺たちの…」の高橋英樹だろう。
「明日は…」の金子信雄は組織と家族の板挟みにあってとにかく憔悴しきっている。組織に犬のように扱われ、一方で能天気な弟は兄の気持ちも知らずに平気で会社を辞め組を再興するなどと言い出す。気苦労で死んでしまいそうな史上最もかわいそうな金子信雄を見ることができる。
「俺たちの…」の高橋英樹は大食いで力持ちのバカ。それに加え女性にはモテモテである。力持ち・バカ・モテモテというストレスとなる要因ゼロの、最強の陽キャラクターである。障子を思いきり開けた勢いで母親をはさみこんでしまうシーンには大いに笑った。惜しむらくはストーリーが後半深刻さを帯びてくるに従い高橋のバカ演技が見られなくなることである。

【キャスト】

タイトル明日は明日の風が吹く殺られてたまるか俺たちの血が許さない
長男金子信雄千秋実小林旭
次男石原裕次郎梅宮辰夫高橋英樹
三男青山恭二
刺客大坂志郎花澤徳衛井上昭文
敵対する組の組長二本柳寛佐々木孝丸小沢栄太郎
次男の彼女北原三枝三田佳子長谷百合

なお、現在多くの映画データベースで、「殺られてたまるか」には以下のような解説がついている。

健次はオートバイのテスト・ドライーバー(ママ)だ。彼に面会人があった。十八年前、父を殺した男白戸だった。

だが、映画の中でテスト・ドライバーのシーンは出てこない。

この経緯について調べると以下のような記事が見つかった。
この映画は当初第二東映のホープ波多伸二で撮影が進んでいたものの、撮影中に事故で波多が急死、代役に梅宮辰夫を立てて撮影を継続したものらしい。テスト・ドライバーのシーンはある程度まで撮影したものの主役の急死をうけてそのフィルムはお蔵入りになったということか。
それにしても東映の姉妹会社として設立された第二東映だが、その2週間後に主役級の俳優を失った痛手はいかばかりか。テレビ向け映画の作成を意図して1959年設立された同社が2年後結局東映に吸収合併されたのもこのあたりに一因があるのかもと想像してしまう。

あまりに惜しまれる・波多伸二の事故死
スタート以来二週間だった生涯

第二東映が六〇年男として大々的に売出し、その強烈な個性と、スマートな身のこなしで第一作「暗黒街の野獣」が公開されるや、たちまち若い女性ファンの圧倒的人気を獲得してしまった波多伸二クンが、三月十三日埼玉県朝霞のロケイション中に惨死してしまった。
彼の第四作「殺られてたまるか」のロケイションで、オートバイ練習をしていた一瞬の出来事だった。車から放り出された彼はもろに電柱に体当り二転してアスファルトの上にたたきつけられた。即死だったのである。前日とはうって変った寒風の吹きすさぶ日曜日の午前九時だった。
それにしても、あまりに短すぎる一生だった。廿二才の青春もさることながら、第二東映がスタートしたのが三月一日、わずか二週間で、またとない逸材を失ったことは惜しみてもあまりある。安らかな眠りを祈るには、あまりに悲しい出来事だったといえるだろう。

国際情報社「映画情報」1960年5月号

ニュー東映の解消
東映は60年「邦画界の5割掌握」を呼号して第二東映(のちにニュー東映と解消)を新設、1週4本の新作を製作・配給するするという、世界映画界に類をみない体勢を作りあげたが、結局、供給がつづかず、61年11月に至り「東映とニュー東映を一配給系統に合体する」と宣言、大作主義への転換を公けにした。かくて、7配給系統にふくれあがっていった日本映画界も、61年末には5系統に整理された。

朝日新聞社「朝日年鑑」1962年版

戦後日本映画の劇映画製作本数は50年代中盤から60年代にかけてピークを迎えていた。特に優れた原作とも言えないこのストーリーが3本も作られたのも、主演俳優が死を遂げたのも、当時の量産体制が原因招いた結果と言えるかもしれない。【吉】

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