Amazonプライム・ビデオにて「どじょっこの歌」(滝沢英輔/1961/日活)を鑑賞。
主演は浅丘ルリ子と高橋英樹。
現在、我々は渋谷の風景が登場する映画を狙って見ているので、特段この映画に興味があったわけではない。東京が舞台になっている作品なので見てみた。
日活公式サイトによると、この映画に登場する東京のロケ地は「港区(東京タワー)/中央区(銀座通り)/品川区(五反田駅周辺)/世田谷区(下北沢の富士見ヶ丘教会愛児園(=保母の浩子を高之が訪ねる場面)」の4ヶ所。かなり渋谷に近い場所が多いので期待したが、残念ながら渋谷の風景は見つけられなかった。
「どじょっこの歌」というタイトルから、「緑豊かな長野あたりで育った幼なじみのふたりがそれぞれ就職や進学で上京しその後偶然東京で出会うがてんやわんやの末に故郷へ帰りめでたく結婚」というような明朗闊達な青春ラブコメディだろうと想像したのだが、貧富の差、戦争の影、交通事故、家出、病魔などの不幸が絡みあう意外と重たい内容だった。ラブ要素はあるがコメディ要素はなし。
とはいえ、この時代のルリ子と英樹のキャラクターのせいか、ずっとじめじめと暗いわけではなくメリハリがあり、存外飽きることなく楽しめた。
この時代の浅丘ルリ子と高橋英樹
浅丘ルリ子は1940年生まれ。1955年に15歳で主演作「緑はるかに」でデビューし、その後、小林旭や赤木圭一郎の相手役を務める日活のドル箱スターに成長する。
「夫婦百景」(1958)では大学生の若夫婦役、「踏みはずした春」(1958)では19歳の女の子役、「都会の空の用心棒」(1960)ではヘリポートのオペレーター役……と、実年齢を微妙に上下いったりきたりしている感じ。
なお、1961年のルリ子が出演した映画は何と12本!
月1本ペースでルリ子の顔がスクリーンに映し出されていたわけである。何という時代だ。これはもう驚きしかない。
この「どじょっこの歌」公開時は21歳。頬が丸くて唇がちょっととがった愛らしい初期ルリ子型。
役の上の年齢は明らかにされていないが、戦争で両親を失い牧師に引き取られた未婚の保育士見習いという役柄なので十代後半くらいだろうか。
劇中、ワインを飲むシーンがあるので現代の感覚だとハタチ以上の役だと思ってしまうが、この時代の日活映画の登場人物は未成年者も割と気軽にアルコールを口にするのでアテにならないのだった。
あれ? いや、それじゃ計算合わない?
両親を失ったのが終戦の年の1945年として、その時10歳だったら26歳、15歳だったら21歳?
16歳以上だとすると、この時代の身寄りのない女性の生活手段として住み込みで働く(あるいは売春婦になる)という道も考えられるので、ハタチ以上なのかもしれない。
一方、高橋英樹は、1961年、高校在学中に日活ニューフェース第5期として日活株式会社に入社し、小林旭と浅丘ルリ子の「高原児」(1961)の端役でデビュー。
続く「真昼の誘拐」(1961)では誘拐犯人グループの中のかなり目立つ役、「ママ恋人がほしいの」(1961)では田代みどりの相手役として堂々の主役、そして、この「どじょっこの歌」ではスター浅丘ルリ子の相手役を務めた。
1961年当時17歳。頬のニキビが目立つがすでにあのおなじみの立派な顔が完成しており、とても高校生とは思えぬ貫禄。この「どじょっこの歌」では実年齢よりも上の大学生の役を演じているが特に不自然さはない。
ちなみに、英樹の代表作のひとつである鈴木清順監督の「けんかえれじい」は1966年公開なので、逆に実年齢より下の旧制中学生役を演じていた。
ルリ子の12本には及ばないが、英樹も1年で4作に出演している。さすがは日本映画全盛期。
この4作は、いずれもクレジットに「(新人)」と付いており、1961年日活イチオシの若手俳優だったことがうかがえる。
あらすじ(ネタバレあり)
芹沢浩子(浅丘ルリ子)は、戦争中に両親を失って世田谷の教会の河辺牧師(下元勉)に引き取られた。現在は教会付属の託児所で働いている。
やはり保育園で働く牧師の息子信夫(波多野憲)とは実の兄妹のように育った。
吉見高行(高橋英樹)は大学生。派手に遊ぶ大学の仲間達とホームパーティで大騒ぎしたり酒を飲んだり踊ったりして毎日遊んで暮らす典型的なボンボンだ。
父と兄は医師で家は裕福。実母は亡くなっており、父昌常(三津田健)、父の後妻景子(東恵美子)、兄昌哉(葉山良二)と一緒に住んでいる。後妻景子との仲はあまり良好ではない。
高行がバス停で待っていると、近くの教会の庭から「どじょっこふなっこ」が聞こえてきた。
それは、保育士見習いの浩子が子ども達と一緒にダンスをしながら唄う声だった。
ある日、高行は交通事故に遭い、父昌常の病院に入院した。
すると彼の病室のすぐ近くから、あの「どじょっこふなっこ」の歌声が聞こえるではないか。
声のする方向へ行ってみると、病室でベッドにいる浩子が見舞いに来た子ども達を前に「どじょっこふなっこ」を唄っていた。
浩子は戦時中に受けた傷が元になって、カリエスを患っていた。今回の入院も体調が悪いとぶり返すカリエスの痛みのためだった。
ベッドの上で「どじょっこふなっこ」を唄う浩子の姿を覗き見る高行。退屈な気分はすっかり吹き飛び、笑顔になっている。
その時、この歌が気になる理由を突然思い出した。「どじょっこふなっこ」は、亡くなった母親がよく唄ってくれた歌だったのだ。
これを機会に、高行と浩子は急速に接近。
退院後、ふたりは託児所の子ども達を連れて遠足に出かけた。
東京タワーの展望台から東京の街を見渡しながら、ふたりは語り合う。
高行「浩子さん、ここには800万人の人が住んでいるんだ。君や僕を入れてね」
浩子「まあ、そんなに大勢?」
高行「だけど、僕にとって必要なのは、そのうちのただひとりなんだ。『どじょっこふなっこ』を唄った、君」
浩子「あたしにとって大切なのは、そのうちのただひとり。高行さん、あなたよ」
高行「じゃあ、僕たちは、かけがえのないどじょっことふなっこだ」
浩子「どじょっこ」
高行「ふなっこ」
連れてきた子ども達はほったらかしで、相手の鼻を指でつつきながら「どじょっこ」「ふなっこ」と言い合うバカップルぶりが光る。
しかし、何故、英樹がどじょっこでルリ子がふなっこなのかは謎。まさかの下ネタ?
そもそも「どじょっこふなっこ」という童謡の中で、ドジョウとフナの間には何の関係もなく、単に春になると出てくる生き物の名を並べているだけだ。
子ども達を帰した後、高行とルリ子はふたりきりでデートのやり直し。
日比谷公園の噴水の前で顔を寄せ合い、「僕達は始まったばかりだ」「あんまり幸せすぎて」などと語り合うふたり。熱々のカップル一丁できあがりである。
帰宅した浩子は、河辺牧師から息子信夫との結婚を勧められる。
「他に好きな人がいるなら、それはそれでいい」と言われるが、これまで世話になった牧師一家への遠慮なのか、浩子は何も言えない。
託児所のクリスマスパーティの日。子ども達、先生、保護者達が集まり大盛況だ。
大学の仲間を連れてきた高行が、子ども達の前で「きよしこの夜」のコーラスを披露する。
高行にとってこのように清らかなクリスマスの夜は初めてだった。いつもならキャバレーやバーで馬鹿騒ぎをしていた。
しかし、今は違う。高行には浩子と結婚するという目的ができたのだ。
年が明けて成年を迎えた高行は、河辺牧師に浩子と結婚したいと打ち明ける。
河辺牧師の前で手を握り合ったふたりは、婚約の誓いを立てるのだった。
しかし、高行の両親は孤児の浩子との結婚に大反対。
両親はホームパーティに浩子を招き、裕福な人々の中で浩子に気まずい思いをさせる。陰口を偶然聞いてしまった浩子はいたたまれずパーティを飛び出して帰ってしまう。
それに気づいた高行は後を追って教会に行くが、牧師の息子信夫が入口に立ちふさがり浩子と会わせてくれない。
浩子との結婚を認めてくれない両親に反発した高行は、家を出ると宣言する。
兄昌哉のはからいで、高行はアパートの一室で一人暮らしをしながら大学に通うことになった。
アパートといっても一人暮らしには充分すぎる広さがあり、内装もオシャレ。ボンボンは裸電球が揺れる四畳半の安アパートには住まないのだ。
この部屋に浩子を招き彼女の肉体を求めたが、信仰上の理由からか「結婚するまで純潔でいないといけないの」と拒否される。
「純潔がそんなに大事なのか」と問われた浩子は、「大事だわ。あたし達で大事にするのよ。あたし達が結婚に飛び込む日はあたし達の勝利の日よ。それを何で飾るの? 純潔よ」と難しいことを言う。
浩子の言葉に納得がいかない高行は「自分は純潔じゃない」とか「君には男の気持ちがわからないんだ」などと言い、「もういいよ」と捨て台詞を残し部屋を出て行った。
そして、久しぶりに行きつけの店に行き、鬱憤を晴らすように大学の遊び仲間と痛飲する。
一方、帰宅した浩子は兄妹のように暮らしてきた牧師の息子信夫から勧められるままワインを飲み、泥酔して寝込んだところを襲われてしまう。
ショックを受けた浩子は家出した。
しかし、身寄りがないため、なかなか就職先が見つからず悩んでいた。
60年安保闘争の時代である。高行の大学でも学生運動が盛んだった。
ある日、高行がデモ行進に参加した時、浩子は偶然ラーメン屋のテレビに映った国会議事堂前のデモ隊の中に高行の姿を見つける。
急いで現場に駆けつけ高行を探すがデモに参加した学生と間違われ、高行と会えぬまま、浩子は逮捕されてしまう。
身寄りのない浩子は、同じアパートに住んでいた山口太郎(小沢昭一)を身元引受人に頼む。彼と面識はなかったが、たまたま彼の表札を見て名前を覚えていたのだ。
可憐な浩子に頼られた山口は悪い気はしない。
山口はキャバレーの専属バンドでトランペットを吹いていた。
ある日、自室で唄っていた浩子の声を聞き、その声質の良さに惚れ込み、彼が働くキャバレーの歌手になることを提案する。
職が見つからないため家賃も払えず困っていた浩子は、山口に歌のレッスンを受け、キャバレーで唄うことにした。
営業時間前にキャバレーの店の者達の前で歌を披露した浩子。
「まるで賛美歌みたいな唄い方」と不評だったが、「もうすぐクリスマスだからいいだろう」と採用が決まった。
さて、キャバレーの営業時間となり、山口がいるバンドの伴奏で浩子が唄っているところへ、高行が現れた。私立探偵を雇い、浩子の行方を探していたのだという。高行は浩子を部屋に連れて帰った。
浩子の手料理でふたりだけのクリスマスパーティ。幸福なひととき。
浩子は牧師の息子信夫に乱暴されたことを告白した。
それを聞いて、「純潔を守ると言ったのは嘘だったのか」と激昂する高行。
寝ている時に襲われたのだと浩子は釈明したが、高行の怒りは収まらない。
絶望した浩子は高行の部屋を飛び出す。
高行は浩子の後を追って部屋を飛び出すが、その瞬間、自動車にはねられてしまう。
父の病院に再び入院した。
時は過ぎ、浩子は工場で働いている。
しかし、疲労のためか、またしてもカリエスが悪化してしまった。
どことなく侘しい病院に入院し、大部屋のベッドに寝ている浩子。
虚ろな表情のまま何も食べない浩子を吉野婦長(奈良岡朋子)が気遣っている。
ある日、「身寄りのない浩子という患者が入院しているが、誰も見舞いに来ず気の毒なので、誰か元気づけに来てほしい」という記事が新聞に載った。
それを見た高行は、託児所の子ども達と一緒に病院へ駆けつける。
浩子の枕元の窓の外で、「どじょっこふなっこ」を唄う子ども達(浩子の病室が1階で良かった。ていうかその患者が人違いじゃなくて良かった!)。
懐かしい子ども達が唄う「どじょっこふなっこ」を聴いた浩子は、気力を取り戻し、しっかりとした声で唱和するのだった。
紆余曲折あったが、ようやく再会できた高行と浩子。
だが、浩子のカリエスはかなり重症のようだったし、高行の両親は今も浩子との仲を許していないだろう。一見ハッピーエンドのようには見えるが、何やら不穏な匂いを観る者の心に残して物語は終わるのだった。
「どじょっこふなっこ」とキリスト教
ところで、劇中で何度も歌われ、タイトルにも使われている「どじょっこふなっこ」の作曲者の岡本敏明は、「父は同志社神学校で伝道に従事」し(学校法人「玉川学園」より)、玉川学園の創立に関わった人物だという。
同志社、玉川学園、そして劇中に登場する教会、ロケ地の富士見ヶ丘教会はいずれもプロテスタント系である。
東北弁の歌詞で春の訪れを唄うのどかな童謡「どじょっこふなっこ」が、世田谷区の瀟洒な住宅街に建つ教会付属の託児所で熱心に歌われているのがちょっと不思議だったが、もしかしたら当時のプロテスタント系の教会で親しまれていた曲なのかも? と思った。
このあたりの事情をもしご存知の方がおられましたら、是非お教えください。
なお、浩子が働く教会付属の託児所のロケ地「富士見ヶ丘教会」は現存しており、「国の登録有形文化財」に指定されている。
あとがき
ありきたりなエピソードを詰め込んだ通俗的なメロドラマながら、新聞広告、テレビの生中継、新聞記事といったマスメディアを取り入れた筋立てが1961年としては新鮮だったのではなかろうか。
今だったらTwitterとかTicTocとかYouTubeを活用して恋人と再会するといった感じか。
主人公が2回も遭遇する交通事故も、交通事故死が急激に増えつつあった当時のトレンドを入れ込んだものかもしれない。
この手の日活作品ではストーリーをかき回しがちな主人公の兄は、最初から最後までずっと弟思いの良い奴だった。葉山良二よ、疑ってごめん。
浩子と何か起こりそうで何も起こらなかった小沢昭一、そして何かいい話をしそうでしなかった奈良岡朋子。
それにても英樹、じゃなかった高行よ。
兄代わりの男に強姦されたという恋人からの告白を聞いて、何故、襲った男ではなく襲われた彼女に怒りが向かうのか。
婚前交渉を断られると渋々ながらも受け入れるし(この時代の日活の青春映画の主人公はこういう場合無理矢理押し倒してレイプするのが通例)、行方不明の恋人を必死に探し回るし(たぶん親か兄貴の金を使ってだけど)、ハンサムで爽やかで愛情深い男なのにどうしてそうなっちゃうんだ高行。がっかりだよ高行。
このあたりは、「女は結婚するまで処女でいるべし」「処女を失うと結婚できない」といったこの時代の純潔至上主義の限界なのかもしれない。
首をひねる場面は少なくないが、誰も死ななくて本格的な悪者がひとりも出てこないという60年代の日活映画としてはなかなか珍しい作品。
主人公の高行と浩子にとって本質的に関わっていない人物はバサバサ切っていくスタイルのせいか、こんなにごちゃごちゃした話なのに意外と見やすい88分。【み】