表題の「二大女優」というのは、松下由樹と瀬戸朝香のことである。
言うまでもなかろうが、「山田五十鈴 VS 杉村春子」とか「水谷八重子 VS 田中絹代」というような“二大”女優ではなく、文字通りの意味。サイズである。
とにかくこの二人、他の女優陣と並ぶとビックリするほどデカいのだ。
それはそうと、相変わらずツッコミどころ満載の「大奥〜第一章〜」(フジテレビ)。
京育ちで尼寺の院主から将軍家光(西島秀俊)の側室になったお万の方を演じているのは瀬戸朝香である。
春日局(松下由樹)の劇中の台詞によれば、家光の好みは「色白でしとやかな娘」らしい。健康的な肌色とがっしりした体躯に加え、キリリとした目元とぽってりした迫力満点の唇の瀬戸は、とても家光好みの娘に見えない。
公家出身なのに、全く京言葉を使わないのも不自然だ。やはり公家出身の大奥正室・孝子(木村多江)はバリバリの京言葉で喋っているのに。
まあ、標準語で話すのは見逃すとしても、やけにつっけんどんに喋るのには閉口する。「京都」「公家」「尼寺の院主」「将軍の側室」といったお万のキャラクタ設定を形成する要素をまるで感じさせない台詞回しなのだ。
これが尼さんではなく海女さんだったら、瀬戸朝香、適役だったろう。
堂々たる体格も、小麦色の肌も、エキゾティックな顔立ちも、ブツブツと途切れるような素っ気ない台詞回しも、海女さん役だったらチャーミングに見えるはずだ。
京の尼寺から無理矢理江戸に連れてこられたお万を追って大奥に入り込んだ尼僧見習いのお玉(星野真理)は、幼い頃から廓で育ったためか少々ガサツな娘というキャラクタ設定になっているようなのだが、それにしても、態度悪すぎ。春日局に仏頂面、ふくれっ面で応対するのである。
いくら将軍の寵愛を一身に受けているお万の部屋付きという立場とて、相手は大奥のトップに君臨する大奥総取締。無礼を働けばお咎めを受けて当然だろう。
仮にお万や将軍が庇ったとしても、大奥総取締の権力を持ってすればお玉一人くらい煮るなり焼くなりどうにでもできそうな気がするのだが、意外と甘い春日局。お玉は言いたい放題である。嗚呼、大奥ってフリーダム。
甘いといえば、大奥の警護もそうだ。
家光とお万が庭で月見をしていると、月見に興を添えていた笛吹きの男・隼人(金子昇)に家光が襲われる。
一大事である。
なのに、回りには誰もいないのだ。寝屋ですら女中が見張っているというのに(コレはまたコレで特殊な理由もあろうが)、将軍が庭に出る時にお付きの者が一人もいないってのはどうよ。
せっかくの水入らずの月見、将軍が人払いをしたのかもしれないけれど、如何なる時でも忍者の2、3人は必ず潜ませておけよ江戸幕府。
さて、にらみあう家光と隼人、おろおろするお万。
演じている西島秀俊も金子昇も細身である。いかにも腕っぷしの強そうな瀬戸朝香が、「ほらほら、あんたも、あんたもケンカしない。はいはいはいはい、じたばたすんじゃないよ、顔はよしなよボディボディ」とか言って、今にも間に割って入りそうに見えてしまうのだった。
この隼人、家光付きの笛奏者というのは仮の姿で、実は幕府の弾圧によって征伐されたキリシタン一族の侍。同じくキリシタンの姉・おゆき(遠山景織子)は大奥に捕らわれている。姉を救出するため、家光に近づいていたのだ。
おゆきは家光の側室になることを拒み、大奥内に密かに作られた座敷牢に幽閉されていた。脱走しようとして大怪我をした上、食事も取らずにいるため、ひどく衰弱している。
ようやく隼人は座敷牢で臥せっているおゆきを発見する。おゆきを背負って逃亡を試みる隼人。おいおい、ちょっと待て。座敷牢は「男子禁制」の大奥のさらに奥の奥にあるんだぞ。隼人はどうやって入ったんだよう。嗚呼、大奥ってフリーダム。
さて、逃亡の途中、おゆきは「神を裏切ってしまった」と隼人に言う。捕まった際、目の前で他のキリシタンたちがポカスカ殴られるのを見て、怖くなって踏み絵を踏んでしまったのだ。すると隼人は「踏み絵なんて形だけのもの」「神はわかってくれる」などと慰め、それを聞いたおゆきは満足そうに微笑む。
この考え方は非常に現代的だと思う。痛みや死を恐れて神を裏切った者をあっさり許すという行為は、当時のキリシタンの教えに背いてはいなかったのだろうか。いくらおゆきが衰弱しきっていても、「姉上、どうして踏み絵を踏んでしまわれたのですかッ」くらいの事は言ってもいいんじゃないのか、隼人。
門外漢ゆえトンチンカンな事を書いているかもしれないが、神への愛よりも家族愛を選んだ時点でキリシタン的にアウトな気がする。
そういえば、隼人もおゆきも「神が」「神を」などと、盛んに「神」という言葉を連発していたけれど、当時のキリシタンは「主」とか「デウス様」とか言ってたんじゃないのかなあ。「シュ」とか「デウスサマ」では視聴者への通りが悪いと判断して、「神」と言わせたのだろうか。
で、隼人の言葉に安心したおゆきは、背負われたまま、隼人の刀で自害するのである。え〜、キリシタンが自殺するかぁ?
いや、まあ、これは作家も言い分がありそうだ。「キリシタンは自害ができないので、おゆきは刀を胸に当てがったまま背負われ、そのまま自然に刀が胸に刺さって死ぬというシーンにしました。これは自殺ではなく他殺、あるいは事故死です」ってな感じか。
でもなあ、隼人の背中の圧力を利用して刀を胸に刺したとはいえ、隼人には何も言わずに刀を胸に当てがったんだから、これって自害じゃないの? っていうか、背負ってる姉さんから血がダラダラ流れてきたら、普通、気づくだろう。侍がそんな鈍感でどうする。
まあ、逃亡中なのに誰も捕まえにこない注目度低そうなキリシタン侍と、残酷な拷問を目にしたわけでもないのにビビって踏み絵を踏んでしまうキリシタン娘の役なのだから、これがリアルなのかも。
二人の言動は、神に仕えるキリシタンとしても将軍家に忠誠を誓う武家の人間としてもひどく中途半端に見えるのだけれど、世の中、立派な人ばっかりじゃない。むしろ弱い人間の方が多いはず。
「大奥〜第一章〜」は“時代劇の皮をかぶった現代劇”と割り切って見ているのだが、現代劇だと思えばこういう表現も別段不自然ではないのかもしれない。
あと、「座敷牢で拾ったおゆきのクルス(十字架)を隠し持っていたお万」っていうシチュエーションも納得できん。しかも、そのクルスを城内で隼人に渡そうとするのである。家光の寵愛を受けている側室という立場上、身の回りは厳しくチェックされてるんじゃなかろうか。
いくら元仏教の尼僧でも、クルスを隠し持っているのが見つかればキリシタンの疑いをかけられても仕方あるまい。嗚呼、大奥ってフリーダム。【み】