まわりからいつもチヤホヤされている姉を苦々しく眺めている糸子の次女・直子。いつも大きな目をギョロギョロさせ不満そうな顔をしている。
そんな直子は「坊ちゃん」に似ていると思う。
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
夏目漱石「坊っちゃん」より
ご存知、夏目漱石の小説「坊ちゃん」の冒頭部分である。
この後、友達に煽られてナイフで指を切ってみせたり人参畑で相撲をとったり畑の水を止めたりといった悪さをし、父が死ぬと遺産を学資に大学に行って数学の教師になり、四国の中学に赴任して生徒達に悪戯され……というお話。
坊ちゃんには色白でおとなしく勉強好きな兄が一人いるが、坊ちゃんとはあまり仲が良くないらしい。遺産を分割した後、新橋の停車場で別れたきり一度も逢っていないという。
長女・優子は幼い頃は坊ちゃんの兄のようにおとなしい子ではなかったが、女子高生になってからは妹達とは別行動、直子・聡子のようにだんじりも引かず、親の手伝いは免除されて絵の勉強ばかりしている。
糸子や直子のような荒くれた気配はなく、安岡美容室の八重子のような穏やかな雰囲気の娘になった。
一方、直子は赤ん坊の頃から「猛獣」と呼ばれ、ついには子守りしてくれる人がいなくなるほどの暴れん坊。成長してからも何かと優子と張り合って喧嘩し、糸子に怒鳴られている。
優子は赤ん坊の頃から昼間は祖父母の家に預けられ、特に祖父・善作に溺愛されて育った。
東京の美大を受験しようとしたら、糸子に「本気で絵を勉強する気がなければあかん」と頭ごなしに怒鳴られ、家族や近所の人々の前でメソメソ泣いて同情を買う。確かに受験日の直前に急に親にそんなことを言われたら泣きたくなるのは当然だ。
だが、何もかも自分の手で切り開いてきたつもりの糸子には、その甘えた態度が気に食わない。
祖母・千代がこっそり受験に行かせてやろうとしたが、母に逆らって上京する決心がつかず、結局、母の知人の北村のおっちゃんを訪ねて寿司をご馳走になって帰ってくる。
それで気分がスッキリしたようで美大進学はやめ、近所の服飾学校に進んで店を継ぐと宣言。
この決心がまた近所の人を感心させて、「親孝行やなあ」「偉いなあ」と褒めちぎられる優子。
中学の卒業祝いにと糸子が直子にエナメルの可愛らしい赤いバッグを買ってきた。直子、母からのプレゼントに有頂天。
しかし、優子は高校の卒業祝いに糸子からもっと高級そうなハンドバッグを貰っていた。その様子を目にした直子は母から貰ったバッグを放り出してしょんぼり。
祭りの夜、オハラ洋装店に近隣の人々が集っているところに優子が来て、「才能があるから東京の学校に進んだ方がいいと言われた」「上京させてください」と土下座する。娘時代の糸子が、善作に「パッチ屋で修行させてください」と何度も何度も土下座したのをなぞるエピソード。
これでまた家族や近所の人達の優子の評価がおおいにあがって、直子は渋い表情である。
さて、子どもの頃からやんちゃでたいして勉強も出来ず父から可愛がられた記憶のない坊ちゃんだが、彼をずっと愛し守り続けた清という年老いた女中がいる。
やたらとお節介を焼いてくるので面倒ではあるのだが、小遣いや菓子をくれるのはありがたいし、赴任先に長い手紙をくれるのは清だけだ。
小原三姉妹は、祖父母、叔母、 従業員ら、多くの人達の手によって育てられた。
これだけたくさんの人に囲まれているのだから、猛獣・直子を無心に愛し信用してくれる人が一人ぐらいいるのではないか。
表向きは優子ばかりチヤホヤされているけれど、裏でこっそりお菓子をくれたり「お姉さんよりアナタの方が出来がいい」と誉めてくれるような、坊ちゃんにおける清にあたる人物がいてもいいじゃないか。
晴れて上京することになった優子、荷物はすべて送ってしまったので手持ちのバッグがない。
そこで「これは?」と経理担当の松田が出してきたのが、姉と差をつけられたのがショックで放り出したままの直子のバッグ。
「でもそれは直子の…」とためらう糸子。「でもそこにほっぽってありましたデ」と松田。
嗚呼、私は残念でならない。
男性でありながらオバサンのようなこの松田が、ひょっとしたら直子にとっての清なのではないかと期待していたのだ。
仮に誰かが直子のエナメルバッグを取り出したとしても、「イイエ、コレはあきません、コレはセンセが直ちゃんに買うたバッグや。優ちゃんは風呂敷でも持ってったらよろし」ぐらいなことを言ってくれる人であってほしかった。
三姉妹の子守りをさせされていた縫子達は店をやめてしまっているようだし、ゴンタな糸子を可愛がってくれた祖母のハルも神戸の祖父母ももういない。
直子はまわりにチヤホヤされなくても自分で道を切り開いていく馬力がある子という設定なのだろうが、でも、彼女に無条件の愛を注ぐ人がいてもいいと思うのよ。「直ちゃんはまっすぐなご気性で」と無根拠に信用してくれて甘やかしてくれる人がいてもいいじゃないの。
ガンバレ直子。
きっとどこかにアナタの清はいる。
それに将来は三姉妹揃って有名なデザイナーになるから大丈夫。母も長寿だ。安心して腐らず悩まずのびのび育っておくれ。【み】