「お若いデス」の発見
最初の出会いは、松竹映画「ばりかん親分」(1963)であった。
主人公段原金作(伴淳三郎)の戦友三公(藤山寛美)が街を歩くシーンの背景に「お若いデス」という看板を見つけた。その時はジェリー・ルイス主演の映画「お若いデス」(1955)が上映中なのだろうと考えたが、8年前の映画をこんなに大きな看板で宣伝するのもおかしな話だ。
次は「からっ風野郎」(1960)。三島由紀夫と妊娠した若尾文子が身を隠す神田の風景にまた「お若いデス」。
そして「上を向いて歩こう」(1962)。少年院を脱走した浜田光夫が神田のジャズ喫茶にドラムの師匠を頼って入るシーンの前に「お若いデス」。
一体「お若いデス」とは何なのか。
「お若いデス」はどこにあったか
ネットをサーチするとヒットする数多くのジェリー・ルイスの映画情報の中に、次のような判例を見つけた。
「東京家庭裁判所 昭和37年(少イ)17号 判決」(大判例)
1962年千代田区神田多町1-4の営業所で当時中学三年生の児童に酒客の相手をさせた件でキャバレー「お若いデス」が罰金五千円の判決を受けたという判例だ。神田という場所も一致する。「からっ風野郎」や「上を向いて歩こう」の画面中の「お若いデス」はこれだろう。
そういう目でもう一度映画を見ると「からっ風野郎」の看板は「小娘アルサロ お若いデス」と読める。
一方「ばりかん親分」の方はどうか。画像内に「むさしや足袋店」「畜産会館」の字が見える。「むさしや足袋店」の下の時は「松屋通り」と読めるので銀座かもしれぬ。
「銀座」「お若いデス」で検索してみると以下の情報が見つかった。
演奏場所はいずれも銀座のジャズ・ギャラリー8。山下洋輔の記憶では三原橋の近くの元『お若いデス』というキャバレーがあったところ。
映画の國「富樫カルテットの或る一日」
ジャズギャラリー8 は新世紀音楽研究所のメンバーの一人だった宮川洋一dsの義父が所有しているビルの地下1階に1964年7月に開店した。(銀座松屋横通り 畜産ビル地下1階)
渡辺貞夫と日本のジャズ 1965年-1977年
畜産会館の地下1階に1963年頃まで「お若いデス」があり、のちの1964年頃に「ジャズ・ギャラリー8」になったようだ。
当時の住宅地図で確認してみる。
千代田区神田多町1-4に「お若いです」の店名が見える。現「プレイスポットビル」(内神田3-13-7)のあたり。
銀座の方は「畜産会館」の表示はあったが、地図巻末のビル各階一覧には地下の情報はなかった。現「ソラリア西鉄ホテル銀座」(銀座4-9-2)。
「お若いデス」の特徴
では「お若いデス」はどういう店だったのか。
前出判例中には「被告会社は『お若いデス』の名の下にとりわけ若い女性(会社の方針としては一八歳以上二三歳未満)を採用稼働せしめている」とあった。
また「お若いデス」のホステスが被害者となった殺人事件を掲載している書物にも店の描写があった。
日本犯罪心理研究会 編「死刑囚の記録 : 明治・大正・昭和・百年の犯罪史 (明治百年シリーズ)」(1968)には、「当時のグラマー美人流行に対抗、小柄な若い美人を五十数名そろえ、女たちは小鳥の名で呼ばれていた。」という記述があり、成智英雄「警視庁犯罪捜査記録 第3集 (猟奇篇)」には「この店は、大型美人の流行に対抗して、特に小柄な若い美人が五十数名女給として働いていて、何れもオーム、山鳩、ツバメなどの
また、榊原喜久治 編「日本観光大観 1961」(1960)には「この店はサービス嬢全員が五尺以下という特異型で小型の美人がひしめき合っているが変り種として人気を博している。社交嬢は六〇名位、お通し付(税込み)ビール一本で五二〇円、二本で七三〇円。ワンセット一、〇〇〇円。サービス料は全体の三割、ノーチップ制。」と紹介されている。
小柄で若いホステスを確保しようとするあまり中学生まで雇ってしまったということか。
なお、件の殺人事件について記しておく。
1959年1月18日、「お若いデス」の女給椙本珠江さん(21)の家を訪ねた知人の新聞記者が椙本さんの遺体を発見、捜査の結果義兄の吉田金太郎(37)が逮捕された。発見した新聞記者に当初嫌疑が向けられたことや、事件後椙本さんの婚約者が墓前で自殺してしまったことで当時世間を賑わせたようだ。
今のところ白黒の映像でしか確認できていない「お若いデス」の看板だが、いつかカラーで見てみたい。【福】