
英映画社とは
株式会社英映画社は、1927(昭2)年に高橋銀三郎(1897-1980)が創立した短編映画製作会社です。
高橋は1924年に銀座に貿易商社「英洋行」を設立し、レコードや映写機、アメリカの教育映画などを輸入していましたが、当時輸入したFORDの教育映画に感激して、1927年、社内に教育映画部を新設。最初の高橋の作品は昭和天皇の「静岡県行幸」の記録映画だったそうです。
その後商社部門は友人に譲り、教育映画・短編映画製作の「英映画社」になりました。
戦前は主に教育映画を製作し、戦時中は電報通信社(電通)映画部と合併、高橋は業務部長に就任し海軍向けの映画を担当、将兵慰問用の「民謡シリーズ」などを製作。
戦後、映画製作を再開。第一作目は「母子手帳」(1948年 / 厚生省)。
その他、静岡県県政ニュース等さまざまな記録映画を製作してきました。
中でも経済復興のエネルギーの象徴ともいえる「佐久間ダム」や「御母衣ロックフィルダム」建設の記録、あるいは昭和歌舞伎の決定版ともいうべき「仮名手本忠臣蔵通し狂言」全12時間の製作など、時代のさまざまな姿をフィルムに収めてきました。
また、交通事故防止や火災予防の分野でも、実写とアニメーションで数多くの作品を製作しました。そのほか社会教育、医学映画、PR映画も製作しています。
フィルム作品だけでなく、ビデオやハイビジョンをはじめ、1990年に大阪で開催された「花と緑の博覧会」展示用のマルチ映像や、シミュレーション映像などのジャンルにも積極的に参加してきました。
英映画社の歴史・受賞歴
その後、制作部門も持ったが戦時統合で消滅(戦後、「英洋行映画部」として再開し、その後「英映画社」となる)。
建設大臣賞/教育映画祭最高賞/全日本PR映画コンクール最高賞
文部省選定/建設大臣賞/教育映画祭最高賞
科学技術長官賞/科学映画祭賞
文部省特選/芸術祭賞/教育映画祭特別企画賞
第3回日本産業映画コンクール大賞
文部省特選/芸術祭大賞/教育映画祭最高賞
文部省特選/第25回芸術祭大賞/第9回日本産業映画コンクール最高賞/昭和46年度教育映画祭最高賞/第27回東京都教育映画コンクール最優秀賞/キネマ旬報文化映画ベストテン第一位/昭和46年度観光映画コンクール最優秀賞
文部省特選/芸術祭最優秀賞/教育映画祭文部大臣賞
芸術祭優秀賞/教育映画祭優秀賞
芸術祭優秀賞
日本産業映画コンクール奨励賞
優秀映像教材選奨優秀賞
文部省選定
「琵琶湖長浜曳舟まつり」
第3回日本産業映画コンクール大賞
文部省選定/芸術作品賞
「越後のしな布」
文部省選定/日本映画技術賞受賞(撮影)
「通し狂言 假名手本忠臣蔵」
文部省選定/芸術作品賞/優秀映画鑑賞会推薦/日本映画ペンクラブ推薦
芸術最優秀作品賞/教育映画祭優秀作品賞/文部省選定
第1回JSC賞
「飛騨古川祭 ─起こし太鼓が響く夜─」
文部省選定
文部省選定
文化庁優秀作品賞/文部省選定
文化庁優秀映画作品賞
文化庁優秀映画作品賞
文部省特選
キネマ旬報ベスト・テン文化映画第1位
日本産業映画コンクール教養部門賞
宮下英一について
1931(昭6)年4月25日に宮下英茂、芳子夫妻の長男として東京都御蔵島村で生まれた宮下英一は、銀座の洋書店「イエナ書店」などで勤務した後、1955年に東映の教育映画部で撮影助手となり、映画人生の第一歩を踏み出します。
1958年に生物映画研究所に移籍。1960年、日本企業グループがアラスカ州シトカ市に建設したパルプ工場の建設記録「アラスカに築く」(千石秀夫監督・撮影)に参加しました。
翌1961年に英映画社が「日本の民家」を製作することになり、文部省特選を受けた「アラスカに築く」の撮影部がそのまま揃って同社に移籍し、初のシネマ・スコープの撮影を体験。この時から宮下は英映画社の一員になりました。
として勤務した後、カメラマンとして英映画社に入社。その後、80年代から英映画社が解散する2009年まで英映画社の代表を務めました。
1960年、日本企業グループがアラスカ州シトカ市に建設したパルプ工場の建設記録「アラスカに築く」(千石秀夫監督・撮影)に参加。
1961年に英映画社が「日本の民家」を製作することになり、文部省特選を受けた「アラスカに築く」の撮影部がそのまま揃って同社に移籍し、初のシネマ・スコープの撮影を体験。この時から英映画社の一員になりました。
カメラマンとしての最後の作品は「彫漆ー音丸耕棠のわざー」(1979年 / 文化庁)。
1980年に撮影から製作に転じ、「東京ー大江戸の春」、「大阪一浪花繁昌記」、「京都一洛中洛外」(いずれも講談社)の3部作を担当。
創業者の高橋銀三郎が亡くなった後、1980年代から会社が解散する2009年まで英映画社の代表を務めました。
若い頃はとにかく身体強健な人でしたが、七十代に入った頃より体調を崩しがちになり、晩年は入退院を繰り返していました。
入院していた虎ノ門病院から会議やロケに通ったり、亡くなるその日まで「来月初めにロケハンに行きたいので一時帰宅したい」と担当医に申し出ていたりと、仕事がなによりも大好きでした。
